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「……」
あまりの出来事にただ呆けていた。
言葉が出なかった、というよりどんな事を言えばいいのかわからなかった。
「え、あ、何……」
情けない声がやっと出た、絞り粕のような嗄れた声。
僕は唯一そこに立っていた彼女を見た。
何が起きたのかわからない、というように呆けている。
数秒前の僕自身だ、そして視線をまた巡らせる。
周りを見た、誰もいなかった、本当に誰も。
美津子の方を再び見た。
どういう事なんだ、と言おうとして―
「……」
そして言葉を失った。
一瞬で異常だと解かった。解かってしまった。
彼女の体は尋常じゃない程に震えていた。
目が前を見ていなかった。
口元が歪に笑っていた。
何か聞きたかった、でも声が出なかった。
「ミ……」
その口から声が聞こえた。
「……ミチャッタ」
やっと吐き出したかのような言葉を僕は聞いた。
「見ちゃった、私……」
見た、何を、見た?
さっき誰かが言ってた言葉を思い出した。
取り憑く、夜の校舎、見た―
不吉なイメージがよぎる。
僕は思わず美津子の肩をつかんで揺さぶっていた。
「見たって、何を見たんだ!?」
「……い」
何かを言おうとして、そしてうつむいてしまった。
「どうしたんだよ!?何見たんだよ!」
「……」
気が付けば手に力が入っていた。
「いや……」
だが、その手は振りほどかれた。
「いや、いやっ、イヤアアアアアアアアアアアア!」
絶叫
急な叫びに、耳が痛んだ。
何が起きたのか、その顔を見た。
怯えている表情で僕を見ている。
いや、恐怖か、なんだその表情は。
「やめてよ……やめてぇぇ……」
後ずさりながら僕から離れていく。
そんな彼女の表情を見るのは初めてで、僕は混乱していた。
そしてまた僕は自分の目を疑った。
美津子が笑ったのだ。
まるで、先程の長い前髪の少女のように、不気味に。
「ケカ、カカカハハ」
まるで人形の喉を無理やり動かしたような音を立てて、嘲っていた。
「キハハ」
聞き間違いじゃない、なんだこれは。
気が付いたら、今度は僕が後ずさりをしていた。
笑っていた彼女の目が僕を見た。
目と目が合った―
「どうしたんだよ美津……」
そして何度目になるのだろう、また僕は言葉を失った。
少しの間差し込んだ月の光のせいかもしれない。
その一瞬だけ見えてしまった。
僕の知っている少女の目は

まるで飴玉のように

白く濁っていた。



「う、あ、あ、うわああああああああっ!」
僕は逃げ出した、いや、どこかに向かって走った。
暗い廊下の先に進むのが怖かった。
だがそれ以上に彼女が怖かった。
階段のほうに走って、思考が足を止めた。
上に行けばいいのか、下に行けばいいのか。
それ以前に誰もいないのか、皆は、一体、どこに。
後ろを振り返る、振り返ってしまう。
その場を動かずに、ひたすら笑い続ける美津子の姿がそこにあった。
だが、顔は、瞳は、こちらを見ていた。
「は……は」
少しずつこちらに動き始めていた。
「う、あああああああ!」
僕はもはや考えなしに下へと向かった。
もはや自分が何階にいるのかもわかっていなかった。
ただ早く逃げたいから、ただそれだけの理由で。
何度もつまずいて転びそうになりながらも、僕は階段を駆け下りた。



「うあっ!」
何も無い廊下で転んだ。
体中に痛みが走る。
そして気付いた、僕はどこまで逃げてきたのだろうかと。
後ろを見た、長い長い廊下の先には誰もいなかった。
僕は奇妙な安堵感を覚えて、周りを見た。
そこには周りを見るのも精一杯な暗闇と、自分の息を教えてくれる沈黙があるだけだった。
「なん……なんだよ、これ」
言葉がやっと出てきた。
やっと、考えるだけの余裕が出てきたのかもしれない。
「誰か……いないのか……」
美津子から逃げたことを思い出す。
一体何だったのか、あれはマトモじゃなかった、だから僕は逃げたんだ。
自分の何かを正当化しながら、恐ろしくなっていた。
不安になって、あたりを見回してみる。
誰もいない、ただ不気味なだけの廊下だ。
壁にかけてある案内板を見る。
自分の場所を確認するためだった。
「……」
もはや自分の理解の限界をとうに超えていたんだと思った。
驚きの言葉は出なかった。
代わりに恐怖で泣きたくなった。
そこに書いてあったのは単純な文字。

地下、四百九十六階。

まるで暗闇でも僕に知らせるような、赤い文字でそう書いてあった。
なんだこれは、なんだこれは、なんだこれは。
窓を見てみる。
そこから外が見えるはず。
そんな些細な希望は、黄土色に埋め尽くされていた。
「土……地面の、中?」
もはや理解なんていう世界じゃなかった。
僕の学校に、地下なんて無い。
無いはずなんだ、なのにここは何なんだ。
僕は一体、どれだけの階段を下りてきてしまったのか。
気が付いた。
この世界にある灯りは、非常灯にともされた、
ほのかに蒼く小さくて弱いものしかないということに。
月明かりなんて、どこにも無くなっていた。


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