3
僕はその場にしゃがみ込んだ。
体を小さくして、考えるのを止めた。
何も考えたくない、考えたくない、そう繰り返す。
そして目を瞑る。
何も見ないように目を瞑る。
何も聞かないように、何も見ないように、何も考えようとしてたはずなのに
僕の耳は何かを感じ取った。
恐怖から振り向く、恐怖から振り向いた事を後悔する。
だが、僕の目に映ったのは予想外のものだった。
「新谷!新谷だよな……!」
目に映った影は僕の名前を呼んだ。
まさか、そう期待して僕はそれに応えた。
「あぁ、ああああ、ああ」
応えようとした、がうまく言葉が出なかった。
情けなかった、今すぐに泣き出しそうだった。
僕の前に一緒に行動していた男子生徒が姿を見せた。
安心からか、僕はその名前を呼ぼうとした。
だが、何か違った。
名前を忘れたのだろうか、何故か出てこない。
「本当に新谷なんだな、無事だったのか」
その男子生徒は僕を気遣ってくれる。
「良かった、良かった、これで」
僕の手を握って、笑顔になってくれた。
「これで、これで……」
そしてそのまま固まる。
「これデ……なんだっケ」
男子生徒はブルッと震えてから笑った。
「ソう……キハハ」
その笑い声は、さっき聞いたのによく似ていて―
「ケカカハハハ!」
手遅れだという事に気付いてしまった。
「ああああああああああああ!!!!」
気づけば背を向けて走っていた。
叫び続ければ足が止まってしまうという妄想につかれ、声を上げ続けた。
肩越しに後ろを見ると、その男子生徒がこちらに少しずつ動いているのが分かった。
美津子のときといっしょだ。
みんな変になってしまって僕を追いかけてきているのだ。
それ以上の思考は働かない、今はなんとか逃げなくては。
暗闇の廊下の中、来た道を必死に走り抜ける。
そして長く感じた廊下を走り抜けて……階段に戻ってきた。
階段を見て上に行くか下に行くか考え、そこではたと気づく。
ここは途方もない地下にあると。
ここで下に行けば、もしかしたら元凶にたどり着いて全て解決するのではないか。
そう、もっともっと地下深くまでもぐっていけば。
しかし下へと向かう階段を見た瞬間、あるイメージが浮かぶ。
最深部で得体の知れないものに取り囲まれ途方にくれる自分の姿が。
下はだめだ。逃げ場がなくなる。戦いようもない。
上だ。そうだ、とにかく逃げなくちゃいけないんだ。
そう思った瞬間上へと向かう階段を駆け出していた。
地下四百九十五階、地下四百九十四階、地下四百九十三階……。
踊り場を通るとき、横目に階数を見ながら必死で駆け上る。
降りたときは気がつけば地下四百九十六階にいたというのに。
上るときは律儀にも階数は1階ずつしか変化しなかった。
どこかを越えたあたりで急に階数が変化する、そう信じて必死で上り続ける。
階段を駆け上がる自分の靴の音と、それ以上に大きな自分の心臓の鼓動しか聞こえない。
途中からは階も数えず、後ろも振り向かずにひたすら上り続ける。
「うあっ……」急に膝ががくんと落ちる。
急に足に力が入らなくなり、がたがたと震えだした。
なんとかその階段だけでも上りきる。
階段を上りきったところでふと顔をあげる。
もう相当走ったのに。それなのに。
窓から見えるのはただ黄土色の壁だけだった。
まだ、地下の中だった。
もうこれ以上のぼっても無駄だ。
うまく動かない足を奮い立たせて廊下を移動する。
ひたすらに暗闇が広がる廊下に不安をかきたてられる。
暗闇に潜むなにかには僕が見えているのではないかという不安。
とにかくどこかに逃げ込みたい。
片側にはただ黄土色の窓が広がり、反対側には教室が並んでいる。
ふと教室の表示を見る。そこに書いてあったのは。
「3−B」
いたって普通のクラスだ。
てっきり496−Cとかそういう表示かと思っていたのに。
しかし……そういえばここは何階なのだ。
まずはそれを確認しなくては。
震える足に鞭打って窓側にかけてある案内板を見に行く。
地下、四百八十五階。
気づかないうちに相当上っていたことと。
それでもまだ地上には一向にたどり着いていないことと。
二つの事実。
ちゃんとがんばった分だけ上に向かっていることは救いだ。
しかし、優に400を超える階数を上るのがどれだけ大変なことなのか。
とてもすぐに上りきれる階数じゃない。
とりあえずは3−Bに逃げ込もう。
教室の扉はあっさりと開いた。
もつれる足をひきずって僕はその隙間に体を滑り込ませた。
教室の中はいたって普通だった。
窓が全て黄土色で覆われていることを除けば。
教卓があり、生徒の机が多数あり、掃除道具入れがあり、ロッカーがあり。
とりあえず教卓の後ろに移動し、座り込んだ。
ほっと胸を撫で下ろす。
しかし……これからどうすればいいのだ。
400階以上を上りきり地上に出て脱出するのか。
たどり着くのはいつになるか分からないし、それだけ長く移動すれば何かに遭遇しないとはいえない。
それに無事脱出できても皆はどうするのだ。
じゃあ皆を探してさまよい歩くか?
いや、しかし他のみんなが無事かどうか。
美津子も……奴も、すでにおかしくなっていた。
二人のことを思い出すと……胸が苦しくなった。
あの二人はどうなってしまったのか。そしてどうなってしまうのだろう。
白く濁った瞳を思い出す。
もう元には戻らないのだろうか。
たまらなく悲しくなってきた。
やはりほうってはおけない。
じゃあいっそ一番地下を目指すのか。
しかしそれこそどうなるか分かったもんじゃない。
どうしたらいいんだ……。
ふと先輩が何かにとりつかれて気が変になったという話を思い出す。
あの話はなんだったか……。
先輩もなにかを見て変になったのだ。
そう、なにか、を。
なにか、とはなんだったのだろうか。
話の鍵を握っている長谷(はせ)は既にどこかに消え去り、残っているのは黄土色に囲まれた孤独という現実だけである。
なにか手がかりがないものだろうか、僕は必死に考える。
おかしくなった先輩、何かを見たという証言、夜の学校、地下というおかしな場所―――。
場所、そこまで来て僕はある考えに至る。
先輩のクラスはどこだった?
ばっ、と顔を上げる。
この位置からはちょうど廊下にあるクラスの表札を見ることが出来た。
3−B、無機質な明朝体で書かれた文字がそこにある。
なんという偶然が転がっているのであろうか。
そう、まさしくここが先輩のクラス、3−Bである。
そこからの僕の行動は早かった。
急いで立ち上がると置かれている机という机を見て回った。
ここにもない、あそこにもない、とにかく迅速に教室内の机を見て回った。
なにか、なにか存在しないか、ひとかけらの望みにすがる気持ちで僕は教室内を探し回る。
無音の世界の中で秒針が一秒、また一秒と刻まれていく。
死へのカウントダウンを思わせるそれに包まれて僕は必死に動き回る。
そして、
「あった」
僕はそれを見つけてしまった。幸運なことに。
佐々木先輩の机であろうその中には、様々な授業のノートが入っていた。
生真面目な人であったのだろう、ノートには授業の名前と自分の名前がそれぞれ刻まれている。
その中に1冊だけ、授業の名前がないものが入っていたのだ。
じんわりと手に汗が出ている。ここになにかが書かれていればいい。
罪悪感などを感じている余裕などどこにもなかった。
僕はそのノートに望みを託した。
ゆっくりと、立ったままで、僕はそのノートを開いていった。
しゃらん。
またあの乾いた音がした。目の前からだ。
心臓の音が早くなった。まさか、まさか。
自分の動きがスローモーションに変わっていく。
世界が緩やかにしか動かなくなる、そんな一瞬。
少女はまた僕の目の前に立っていた。その年齢におおよそ似合わない妖艶な笑みを浮かべて。
そうして言った。
「見つけたね」
口が裂けるのではと思うほどの笑みを、更に引き攣らせて告げた。
「始まるよ、やっと」
ただ一言だけ。
そうして消えていった。
くす、くすくすくす、くすくすくすくすくすくすクスクスクスクスクスクスクスクスクスクス。
不気味な笑い声だけ残して。
唖然となった。しばらく身動きが出来ない。
秒針の音が無常に響いている。
あの娘は、なんだ。どうして、なんで。
そんな思いが体中を支配している。そうしてただ呆然としていた。
そうだ、先輩のノート。
どのくらいそうしていただろうか、僕はもう一度すがる思いでノートを開いた。
そこには、何もなかった。文字も、絵も、ページさえも。
ただ、表紙の次のページからが無残にやぶられ、裏表紙にこう書かれていた。
「始まるよ、
探してごらん希望が何かを
見つけてごらん、あなたの仲間を
じゃないとすぐに終わってしまう
じゃないとみんな終わってしまう
いっぱいいっぱい遊ぼうよ
ノートはバラバラ、探してごらん」
中身がない、その事実に僕は驚愕した。
そして書いてある文章。
助けられるのか?美津を、長谷を、他のみんなを。
ダンッ、突然廊下側のガラスが揺れる。
ダンッ、ダンッ。
振り返って見ると、いくつもの真っ赤な手形がそこについている。
その数はだんだんと増えていき、いつしか曇りガラス全体が真っ赤に染まっていく。べちゃり、と水気を含む足音が廊下に響いた。
それはすぐそこまで来ている。
「見つ……けた……」
長谷の声だった。
急に振り返る。
その姿を目に入れた時に
「長谷……、長谷なのか?」
もはや感覚のおかしくなりつつある僕は、恐る恐る口に出していた。
言葉を出せるほどの意識があったのは、目の前の長谷が
今までの二人とは違って正気を保っているように見えたからだ。
だが、その体は血に濡れていた。
まるで赤いスケッチブックを更に赤で塗り固めたような、
そんなおびただしいとも言える血の量。
辛そうにしているその動き方から、長谷はきっと傷を負っている。
そんな事をどこか冷静に見ている自分がいた。
「はは……お前はマトモだよな、新谷」
僕とよく似た名前で、共にそれでよく笑い合っていた長谷が
下手な笑顔で僕に問いかけた。
「大丈夫、僕は僕だ」
こんな言葉で伝わったのだろうか、と拙い自分の言葉を責めたくなる。
「それよりも、大丈夫なのか、そんな……」
血が、と言いたかった。
それを察したかのように長谷は言った。
「はは、七割は返り血だな、あとは、俺の傷だけどさ」
そう言って、長谷は両手を見つめた。
血に濡れた両手、もはや赤を通り越して黒くなり始めていた。
「アイツを……やっちまったんだ」
悲しそうな、怯えてるようなそんな声で
無感情を装うかのように、呟いていた。
やっちまったって、何のことだ。
アイツって、誰のことだ。
そこで、何故か名が思い出せない男子生徒の事を思った。
長谷と一番つるんでいた、悪ガキ二人といったパートナー。
僕のそんな想いを察したかのように、長谷は口を開いた。
「なんで、なんでなんだろうな……」
僕は黙っていた、そして次の言葉を聞いて、黙っていられなくなった。
「アイツの名前、どうして思い出せないんだろうな」
「!」
戦慄した、という言葉がちょうど合っているのだろう。
その表情を悟ったのか、長谷は僕に尋ねた。
「とりあえず、何があったんだ、俺達さ?」
その問いに答えられない僕は、自分の身に起きた事だけでも説明しようと思った。
「……笑えないよな、なぁ」
短い話だったが、お互いの言葉を奪うには十分な内容だった。
「え、と……美……加夜も、急におかしくなった、みたいで」
話して気付いたことがあった。
僕は加夜……の名前も忘れかけている。
美、なんだっけ。
何か大きな抗えない力に、塞き止められてるような気持ちになった。
「もう、俺には何が何なのかわからないよ……」
名前の通りに長細い長谷の顔が、もっとやつれて見えた。
きっと僕も生気がなくなってるように見えているのだろう。
「俺は、これだよ」
そう言って長谷は、いつの間に持っていたのか小さな鞄から
腕一つ分の何かを取り出した。
ハンマー、いや、鈍器というのだろうか。
それは血に濡れていた。
「一人でさ、何でか知らないけどこんなもの持っててさ」
そして語り出した、自分の恐怖を吐き出すかのように。
「何かが言ってる気がするんだ、俺達を自滅させるように、何かさ」
なんとか言葉にして考えを整理してるように見えた。
「それで、こんなところに居てさ、アイツが狂ったように襲ってきて」
そして一息ついて
「俺、これで、頭をさ、はは……」
皮肉に笑った。
その口元は酷く悲しんでるような、狂いきって喜んでいるような、
そんな笑みを浮かべていた。
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