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「え?」
彼女は訳が分からないといった様子で答えた。
あぁ、やっぱりという気持ち、期待が外れなかったという嬉しさと同時に何故なんだと思う悲しみが強くなった。
「キミは、春日さんじゃないね?」
ぞくり、と彼女の影が大きくなった気がした。
嘘をついたときの彼女の癖や言葉遣いが違うのもやはりこのせいだったのだ。
ボクは冷たい目で彼女を見据えた。
「キキ、カハァ」
春日さんの体は妙に痙攣を起こしだした。みると、妙な、巨大な影が彼女を後ろから覆っていった。
「化け物か」
ボクはぽつりと呟いた。
その瞬間だった。
正に瞬きをする間もなくという表現が正しかった。
まるで空間に汚れを垂らしこむような、
そんな黒い影が形を成して、一つの棘となった。
「ぐぅっ!?」
情けない声が漏れる、誰が、と思う前に気付いた。
これはボクの声だ。
左肩にそれが刺さっていた。
痛み、戸惑い、焦り、そんな沢山の感情が頭を支配する。
これは、危ない……!
咄嗟に逆の方向に体を捻って、どれほど深く刺さったのかもわからない棘を抜く。
そして直ぐに判断する。
「勇者でも何でもない人間が出来ることなんて」
ポケットから使い物にならない携帯を取り出す。
それを右手で取り出し、全力でその黒い何かの方に投げつけた。
しかし、意識があるのかすらわからない彼女自身の腕に遮られて
それは遠くにまで飛ばされていった。
弾き飛ばした彼女の表情は暗くて窺い知る事が出来ない。
「二つしか無いじゃないかっ」
そう呟きながら、ボクは踵を返した。
勢いをつけて駆け出す。
やられる事か、逃げる事―
その後者を選んだボクは
「――っ!!」
自分の背中からお腹にかけて、やけに鋭い棘が刺さっているのを感じて
その場に、倒れ込んだ。
「そうか、君は本物だったけど、別の何かが操ってたんだな」
操る、なんて言葉を口に出して自分で笑いこんでしまう。
一体どこの世界だよ、ここは、と。
しかし今まで自分が見てきたものを考えると、それも不思議な事じゃない。
そしてその影に向けて「僕」の隣にいる奴は問いかけた。
「どこを向いているんだ、お前は―」
その言葉が響いて、オダは、驚くような表情をした。
僕は、動き出したそいつをただ見ていた。
そして東は、振り上げた包丁を春日さんの影、いや、膨れ上がっていて
重い気配を醸し出している影に差し込んだ。
その動きが遅くなる。
包丁を斜めに、切り裂くように引いた。
影は元からカタチを成さなかったように、
むしろ周りの闇に溶け込むように消えていった。
暗闇の中で影が見える筈も無く、今まであったものが消えてから、
やっとおかしいと思えることに気付いた。
「大丈夫か、オダ」
倒れ付しているオダに駆け寄る東。
僕は春日さんのほうに寄っていった。
眠ったように倒れている。
不安を胸に抱きながら近寄る。
そこから呼吸の音や、うめき声が聞こえてきたのを確認して
生きているという事に安心した。
「……くっ」
東の方から声がした。
座り込んではいるがどうやらオダも無事だったらしい。
「注射より、痛いな……」
久々に聞いたようなオダの声は、元気は無かったが
平静なのは感じ取れた。
「無茶しやがるぜ、もしあの携帯の音が聞こえなかったら俺達は来れなかったぞ」
その視線が意味する方向には、オダの携帯が転がっていた。
「音量全快の音楽か、今聞くと煩すぎるな」
少しでも近くにいる人に居場所を知らせる意味でも
音を大きくして投げ込んだ携帯が、新谷達に場所を知らせた。
「まったくだ、取り合えず立てるか?ほら」
「済まないな、本当に助かった」
オダが東の肩を借りつつ立ち上がる。
「春日さん……は、意識無いみたいだ」
その間に何回か話しかけてみたが、彼女の返事は無かった。
「仕方ねぇ、新谷、おぶって行けよ」
そんな恥ずかしい事出来るわけが……と言いかけて止めた。
春日さんの腕を借りて背負う。
意識の無い人間は重いって言うけれど、思ったよりは軽かった。
少し乱暴に動かすかもしれないけど、ごめん。と先に心の中で謝った。
「そうだよな、俺達以外にも気付いてる奴がいるかもしれないよな」
東が吐き捨てるように呟いた。
その視点の向こうには、まるでゲームに出てくるような
そう、ゾンビと言ってもおかしくない様な人型が2つ、
ゆらりゆらりと歩いていた。
まだその表情は、顔はわからない。
「僕達の仲間だっていう可能性は……!?」
「あんな歩き方をする人間がいるならな」
僕の戸惑いの声に、オダが答えた。
「逃げられるか?春日さんを背負って」
その質問に首を縦に振る。
そうしてる間にその人型はゆっくりと、段々近寄ってくる。
「何度謝っても足りないが済まない、東。肩を借りる」
「ふん、本当に危なくなったらお前を置いていくさ」
友達に話すような軽い口調で、毒を吐く。
だが本当に東は置いてくような事はしないだろう、多分。
友達なのだ、そう、何故か忘れかけているけど、僕達は友達で仲間なのだ。
「その仲間を俺は沢山殺したけどな」
東がそう呟いたように聞こえた。
いや、気のせいだ。幻聴に決まっている。
今更疑心暗鬼になるなんて、自分自身が嫌いになる。
「逃げよう、出来れば外に」
東の隣から声がした。
それに無言で頷く。
春日さんとオダを背負った僕達の、血だらけの逃走劇だった。
僕たちは音楽室を背に、二つの人影のほうへまっすぐ進んでいった。
お互いの距離はだんだんと縮まっていく。
できるだけ危険は避けたい、と言いたいところだが、
実際には前方の二人を突破しないことには、他の教室や他の階に逃げることはできない。
東が僕と小田のそれぞれを見て、うなずき、廊下の壁のほうに目配せした。
僕らは東にうなずき返した。
僕は春日さんを支えながら、小田は傷ついた自分の体を引きずりながら、
廊下の壁のほうに近寄った。
東は迫り来る二つの人影に向き合い、包丁を体の前に構えた。
人影は歩みを止めず、距離を詰めてくる。
残り1mほどになり、東が飛び掛る構えをとったそのとき。
廊下から入ってきた薄オレンジの月明かりが人影を照らした。
月明かりに照らされた顔を見て、僕らは同時に息を呑んだ。
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